surrogate
[名][C]
1a. 代理人
1b. 代理物
2. (米)遺言検認判事
[形][A]
1. 代理の
2. 代用の
人間工学とそれを支える技術は進化の一途をたどり、今や脳神経から発せられる電波をキャッチして、限定的ながらも、それを行動に移すことができる、という段階にまで至っています。先天性あるいは不慮の事故による後天性によって、身体の一部を失う、もしくは麻痺してしまっても、失った部分を動かそうとする脳神経が無事であれば、その通りに『義肢』が動く。そして、それが実用化されるのは、そう遠くなくなっています。
そんな夢のような世界は、いつしか手足だけでなく、顔を含めた全身に至り、遂には、当の本人は自宅でバーチャルコンソールの前に寝そべりながら、自分の『分身』が自分の生活の代わりを担ってくれる。たとえ殴られても蹴られても、不慮の事故に見舞っても、本体は決して傷つくことがない。自分の好みの体型や体質、身体能力もオプションで付けることができるので、まるで漫画の世界のように、100m先の地点に跳躍することも、『意志』次第で可能となる。
そんな世界に生きる人達にとって。
今、目の前にいる人は、一体誰? 貴方の話している人は、本当に貴方の望む人?
その目に見えるのは、その耳に聞こえるには、その手で触れたぬくもりは、果たして本物? 偽物?
そして。
そんな社会システムを形成したのは人間であれば、代理となる『分身』もまた人間が作ったもの。人間は、これまでも、そしてこれからも不完全な存在なのに、完璧な『分身』を作ることができるの? その『分身』は、完璧であるために支払うべき代償があるのでは?
最新テクノロジーものによくある、典型的なサスペンス・アクション系作品。しかしそこには、たとえ自分の大切な存在であっても、『分身』に対して接することによる違和感や葛藤といったヒューマン・ドラマの要素も若干ながら盛り込まれています。
個人的には、「目の前にいる人は確かに大切な人なのに、その人は『分身』で、『生身』ではない」とか、「『分身』の生活に浸りきり、ある日突然『生身』の生活に戻らざるを得ない」などの、便利さの中に潜む人間の苦悩と葛藤が前面に出ている、そういう作品の方がよかったかな、と思います。あくまで僕個人の好みの問題ですが。
サスペンス・アクションを中心として描かれていますけれど、お決まりのエンターテインメントでは他の作品と遜色がなくなってしまうため、恐らくヒューマン・ドラマの要素を盛り込んだのでしょうけれど、背景が薄くてそこがいまいちのように感じます。いっそのこと、サロゲートを『サスペンス・アクション』オンリーで、『ヒューマン・ドラマ』オンリーで描いた方が、一層重厚感が増したのでは、と思いました。
しかしながら。
周囲がみんなロボットとか人形って、映像の世界だからこそ、その『気持ち悪さ』が伝わってきたのですが、たとえそうかもしれなくても、サロゲートのような『分身』の生活を望む人も、もしかしたら現実にいるのかもしれません。そう考えた時、世界のほとんどが『分身』で覆われる世界も、決して絶対悪には成り得ない、と複雑な思いに駆られてしまいます。
こんなところを見ている人なんていないと思いますが、それでも敢えて。
お久しぶりです。皆さん。
相変わらず仕事は忙しく、肉体的にも精神的にも荒波の渦中におり、何とも抜け出せない毎日を過ごしております。具体的には明言はしません。すると齢30のくせに何グチグチ言ってんだ、と言われそうですから…。
もともと仕事ジャンキーなところもありますので、20代は、やることなすこと全てを吸収する! という意気込みで仕事をしてきまして。酸いも甘いも、得意も苦手も、この身に刻み込んできたつもりです。まだまだ不勉強なところもありますが。
そこでようやく手に入れた、自分を築く上での『軸』。しかし今、その『軸』に対し、使い方やその威力を学び、これからはその『使い道』を学ぶ転機になってきた、と考えています。
吸収するだけの時期はもう終わりを告げた。他にも色々とやりたいこと、吸収したいことはあるけれど、これからは、その吸収したことの使い道を探さなくては。
早いに越したことは無いけれど、自分を壊してまで性急な答えは見つけたくない。まだまだもがき苦しむ時期は続きますが、精一杯、力の『使い道』を探していこうと思います。
さて。
僕は今、お金と時間が許す限りですが、日本全国津々浦々を歩き回っています。そして、行きついた先の写真をパシャパシャと撮っています。
最初は、その土地に行ったという備忘録的な意味合いで写真撮影を行っていましたが、その過程で、ある想いが芽生えました。
「今目にしている光景の美しさは、数十年後も同じ姿のままなのか?」
『地球環境保護』とか『文化遺産保護』といえば聞こえはいいですが、あまりそこまでおこがましく、仰々しくは考えていません。ただ単に、数十年後に再度訪れた時も、同じ美しさのままそこにあるのか、という思いです。
その時の環境や情勢によって、そこにあるものは、時代に即して変わっていくのは世の常だと思います。環境を保護しよう、遺産を守っていこう、という趣旨はもちろん大事だと思いますが、今の、そして未来の生活を犠牲にしてまで環境や遺産を守ることが大事とは思わない。大切なのは今であり、未来である。そのために、環境や文化遺産を破壊する、捨てるということも、一つの選択肢であると考えています。
僕が写真に収めているのは、写真に収めた『まさにその時』の姿を切り取ったもの。これを残すか、はたまた変えるか、それは今を、これからを生きる人達の選択。
美しい、残したいと考えれば残せばいい。不便だ、変えたいと思えば変えればいい。しかし、残すも変えるも、相応のリスクを見返りが必要になる。
時には、自分が思い描いた未来そのものを代償にするような事態にも。
自分も含め、それを考えるきっかけになれたら、と思っています。
基本的に僕はアマチュアでも何でもなく、ただの趣味で撮影している下手くそ極まりない上に、これまで薄学のままで修正を施しちゃったりしていますが、よろしければ是非、ご覧ください。
Picasa Web Album
Panoramio - Photo
けれどそれは、全てを拒絶する世界となっていることに気付いていないのだろうか。いや、本当は気付いているのだろう。でも、そうだと知っても、止めようとはしない。『自分』という『殻』に閉じこもった世界でしか生きられないから、その『殻』を作ったからには、維持し続けるしか、もう術を知らない。その他の方法など、知ろうともしないのだ。彼の、『ともだち』の強大な影響力を目の当たりにした人たちには、彼の考え方に同意出来ない者も多いだろう。でも、何故それを止めないのか。彼の強大さに恐れ慄いたのか。彼の考え方のあまりにも稚拙さに、あきれ果てたのか。
いや、彼らは知っているのだ。『ともだち』を止めなければならない、と。でも、止めようとしない。誰かに止めて欲しいのだ。一度、『ともだち』から受けた恩恵に酔いしれてしまったから。酔いしれてしまった責任を、自分で負いたくないのだ。
色んな人が、それぞれ考え方は違っていても、目的は一つ。「『ともだち』を止めなければ」。そんな中で、一度は自分の無力さに嘆き、もがき、悲しみにくれながらも、自分のやり方で『ともだち』を止めようとする男がいた。その男も、「『ともだち』を止めなければ」という考えを持つ者だった。
でも、彼が他の人とは違う考え方を持っていた、それは、「始めたものは終わらせなければならない」。それがどんなに些細なことでも、子供じみた遊びでも、いつかは終わる。いつかは終わらせる。『ともだち』は、自分の作った殻に永遠というほどの時間に閉じこもることを望んでいる。それでも、終わらせなければならない。その後に、どんな結末が待ち受けていようとも
で、感想ですが……
2作目に続いてやっぱりですかというのがどうしても。。。 orz
2作目に続き、展開はあまりにも早すぎて中途半端感は否めず、何か知らない間にラストに行ってしまったような、そんな印象を受けました。印象に残ったところはどこか、というと、やっぱりラストの部分かなー、という感じで。2作目と異なり、主人公級の人物が色々なところを行ったり来たりすることは少なくなりましたけれど。
そんなこともあって、この映画が公開される前に「原作とは異なる展開!」とありつつも、その恩恵があまり受けられず。ここまで書くと踏んだり蹴ったりなのでこのへんまで。
ただ、映画の中と分かっていながらも、演出だと知りながらも、やっぱり『歌の力』というのは人をこんなにも元気づけてくれるんだな、と思いました。「人類を、未来を救う」だなんて御大層なごたくを並べなくても、悪に対抗するだけの絶大な力を身につけなくても、人を感動させる、人を引き付ける力を身につけることができる。そんなことを思う作品だと思います。
きっかけは、昨年の秋。会社の同僚の一言。
「ああ、来年こそは富士山登頂してぇなぁ…」
その同僚は、過去に富士山に登ったものの、八合目あたりで体調不良を訴え、結局断念。何とかしてリベンジを図りたいという願いがあったそうな。
そして僕は、過去のテレビ番組で挙げられた富士登山の特集に惹かれ、富士山に登頂したい、という旨を彼に伝えた結果、利害が一致し、一緒に登頂を目指すことに相成りました。
しかし、如何にシーズン中とはいえ、ただでさえ富士登山は過酷なもの。しかも初めての富士登山。さらには御来光目当てで夜中(21:30)に河口湖五合目に到着する、というスケジュール。昼型の僕は昼間は一切の眠気に襲われないため、ほぼ不眠のまま登山を敢行することに。おまけに、その同僚ときたら、
「金剛棒(山小屋とかで売られている、登山をサポートするための長い棒)やストック使うのって、かっこ悪くね?」
という、よく分からないポリシーだか美学を披露し、さらには半ば僕に押し付けるような形をとったため、初の富士登山は何かと(不本意な)縛りがある状態で行くことになったのでございます。
おりしも富士登山はシーズン中。特に初心者から熟練者まで愛用されている河口湖五合目からの登山道は、度重なる渋滞で前に進める速度も遅くなり、「本当に御来光に間に合うのか?」と一抹の不安がよぎりました。しかし……
登山開始時、雲は全くと言っていいほど覆われていなかったので、こりゃ絶好の御来光かな? と期待を寄せていたものの、渋滞があまりにもひどかったので見れるかなー、と一抹の不安が過りましたが、雲間からではあるものの、かすかに上る太陽の光を拝むことができました。
そして、眼下に広がる富士吉田市の街並み。まさに天からの眺めとはこれぞ、という感じで、本当にすがすがしく、そして何とも言えぬ達成感に満ちた瞬間でした。
河口湖五合目出発…21:40 富士山頂に到着…翌日の5:05
登山時間…7時間25分
初の富士登山、夜間、シーズン中による大渋滞、ストック等の補助装備無しなので、まぁまぁかな、と思います。
で。
同行の同僚は、というと。
ジンクスの八合目あたりからやはり体調が悪くなり、「でも絶っっっっっ対に登頂してやる!」と意気込んでいたため、とりあえず八合目でちょっと休め、そして先に行って待ってる、必ず登頂して来い、という伝言を残して山頂で待っていましたが、待てども待てども登ってこず、だんだん手足も冷えてきて約2時間30分。ようやく同僚が登頂しました。
何を隠そう、もうその時は半ば高山病になりかけでグロッキーに。結局、火口付近を散策することなく、彼が登頂してすぐさま、下山にうつったとさ。
まぁ、微妙に天候も悪くなり、パラパラと小雨も降ってきたので、頃合いかなとは思いましたが。
それでも、この富士登山は、これまでになく、非常に有意義で満足した体験でした。そして、同僚は「もう二度と登りたくねー」とぼやいていましたが、何を隠そう僕は、「また登りたいなー」と思ってしまった、二度登る馬鹿なのです。
様々な人との出会い、そして別れ。たとえ強力な魔力と宿命を宿すとはいえ、彼はまだ成人していない少年。その魔力と宿命を背負うには重すぎる。しかし、それであるが故に、彼の周囲は、彼が逃げたり背いたりすることを許さない。懸命に、彼が背負わなければならない『魔力』と『宿命』から守ろうとしたけれど、次々と襲いかかる魔の手と、大切な存在を次々と失い続けるこの状況であれば、もはや彼自身も、逃げるわけには、背を向けるわけにはいかない。
戦わなければ。
これまで、数多くの人が、彼のために命を賭けて戦い、そして死んでいったのだから。
ヴォルデモートは、遂に、その姿を衆目の面前に曝したのだから。
この、凶悪で、滅ぼそうとも蘇ろうとする、完璧ともいえる魔王を倒すための、唯一の手掛かり。
ホークラックス。
これまでにも幾つかのホークラックスを破壊したが、それでも、この魔王の完璧さを揺るがすには程遠い。
禁断の術『ホークラックス』は、一体いくつあり、どこにあるのか? 誰が所持しているのか? 見つけても、破壊する術はあるのか?
けれど、今はそれしかない。こうしている間にも、魔王とそれに追従する者たちの魔の手は、魔法の世界にも、普通の人々の世界にも席巻しているのだから
なーんて、まじめに書いてみましたが。
半ばギャグ映画になっていました。
それもそのはず。登場人物の大半が、異性を気にするお年頃。これまで気にもしなかった人でさえ、遠かれ近かれ、見るとドキドキする、声を聞くとドキドキする、その人の夢を見ると、朝、パンツに白いたんぱく質のシ(以下自粛)。
ある意味、主要人物(とりわけお騒がせトリオ)の、大人になっていく心の動きが明瞭に出ている作品になっていると思います。しかし、相変わらず濃い内容を約2時間半にまとめたわけですから、スタッフの皆様方の心意気たるや、お察しいたします。
とはいえ、やはりこの作品が、いわゆるクライマックスの幕開け。強力な魔力を持つ者たちによる、それぞれの運命を背負った戦い。
誰もが逃げ出したくなるような宿命であっても、それでも時間は、邪悪なる存在は待ってくれはしない。最終章、それぞれがどのような想いと決意を胸に、宿命に立ち向かっていくのかが見ものです。