それでも僕は、今の仕事を誇りに感じるし、これから先も続けていきたいと思う。それまでは、今の仕事に対する結果に満足していただいているお客さんの存在があった。でも、今は違う。同じ道を選び、共に歩んでくれる仲間がいる。たとえ世界の大多数が無意味と決めつけても、僕たちの仕事に意味を与え、評価してくれる人たちがいる。
そういう人たちの存在が、これまで僕を形作り、そして、今の僕がいる。この人たちの存在は、たとえそこに金銭のやり取りやメリット・デメリットが無くても、ただただ、感謝するばかりだ。
でも、社会はそういった人たちばかりでないから、時には苦痛も感じるし、屈辱も感じる時がある。誰が決めたのか分からない、目に見えるわけでもない、それでも人は、何かを縛りつきたがる。何かに縛られたいと思っている。それに意味があるのか、それさえも分からないまま。
それは権力の象徴。人が人として、動物として、何かの優位に立ちたいと思わんばかりに誇示するもの。本来、誰かを幸せにするためのものでさえ、権力の前には苦痛となる。
縛りつけられれば縛りつけられるほど、人は、今自分が成している、成そうとしていることに疑問を持つ。一体これが、誰に、どんな役に立つのだろう、と。特に、前人未到の仕事をなそうとすると、その色が一層際立って濃くなる。きっと、自分独りだけではつぶれかねない。
そして、迫りくる苦行や困難。単なる人間の営みだけではない、眼前に広がるのは、人間がどんなに努力を重ねても決して追い抜くことができない大いなる大自然。穏やかな時は、ほんの一瞬だけ。自然は常に、それに挑みかかる者に対して容赦無い牙をむく。
それでもその大自然に立ち向かおうとする意志と熱意は、一体どこから出てくるのだろう。きっと、独りでは決して成しえない。共に行き、共に頂へ登らんとする仲間がいるからこそ、成しえることに違いない。それが、どんなに前人未到の偉業であろうとも。
僕が今携わっている仕事は、独りの時でも別に何とも思わなかった。その仕事そのものが楽しくやれたからということもあるのだろうけれど。でも、ふと脳裏によぎることもある。「このままずっと、独りなのか」と。
それだけに、共に歩む人たちができたというのは、何物にもまして掛け替えのないものだった。失いたくないと思った。無理に気負うつもりはないけれど、これまで一層頑張りたいと思うようになった。自分のためにも、その人たちのためにも。
これまでも、これからも、誇りを持てる仕事と、それを共有できる仲間がいる、ということを、ずっと大切にしていきたい。そう思える、珠玉の一作だと思う。
内容の面白さはもちろんだし、ようやく自分に合った、仕事という『武器』を手に入れた。それまでお客さんとの対話も、客観的に見てみればどこかぎこちなかったのは、それまで自分の手にした仕事という『武器』に、自信が持てなかったから。強力だったのに、上手く振りかざせていなかったから。そういう『武器』を手に入れ、使いこなすことができた瞬間、その『武器』そのものはもちろん、それを使いこなせるということにも誇りを感じています。同時に、その『武器』の恐ろしさも十分に承知の上で。
さらに僕を変えたのは、その『武器』を分かち合える仲間ができたこと。それまではほぼ僕一人だった。傍らで誰かがいても、特に『武器』を共有するには至らなかった。一人でいることに慣れすぎてしまっていても、強大な『武器』を一人で何年も抱え続けるには、少々重すぎたのかもしれません。だからこそ、ようやく出来た仲間の存在は、僕にとって大切なものであり、僕の可能な限りのところで、大切にしていきたいと思います。
けれど、それまでの日々をなくしてしまうかもしれないくらいの、難局に差し迫っています。それというのも、僕の立場、というより、立ち位置の問題で。
二つの組織の狭間で、今、もがきにもがいています。
自分の出来る範囲に、出来る限りのところで、何とかしようと思っている。自分の力ではどうにもならないことはこれまでにも何回かあり、その都度、諦めてきたこともある。でも、時には諦めてしまいたくないこともある。それまで得たものが大切だと思えば思うほど。
翻って考えれば、それは僕の我が侭なのですが、その我が侭が、かえって他の人を不幸にするかもしれない。そう考えてしまえばしまうほど、自分の中に毒物が溜まり、身体中を駆け巡るかのように苦しむ。
今まさに、見えない壁に四方八方を塞がれて、どうにもならない箱の中にいる、というような感じです。得たいものが目の前にあるのに、決して手に届かない。その壁を破壊する方法はあるけれど、破壊そのものが誰かを不幸にするかもしれない。
だからといって、「自分だけが犠牲に」という考えは持ち合わせていません。もしそうだとしたら、多分それは、自分にとっての本当の望みではないから。
そんなわけで、この数ヶ月間、取り外せない、壊せない壁にもがきながら生きています。多分、しばらくは続くでしょう。それにより、体調も崩しがちで、毎日吐き気を催すような気持ち悪さにとらわれながら、それでも前向きに生きようと思っています。
思うとおりに、すべきことを、したい通りに、する。
そう心の中で念じようとも、時には自分の力だけではどうしようもない挫折感に陥る時もあるのですね……
前は、週に2回とか3回とか映画を鑑賞していた時もありましたが、今はかなり回数を減らしています。たとえ鑑賞したとしても、ブログに書く回数も減らすと思います。
ただ、自殺も暴挙も全く考えていませんので、そこはご安心を(つーか、誰も心配してない orz)。
これまでの自分の活動を抑え、結構ハイスピードで駆け巡るように生きてきたので、ここで少々ペースダウンしていこうと思います。もがくのにも、エネルギーが必要ですからね。
この季節を象徴する花といえば、紫陽花と花菖蒲。小田原城公園には、その両方が見頃を迎えていましたが、どちらかというと主役は花菖蒲。紫陽花は、天守の城壁として守らんとしているかのように、斜面に咲いていました。
前に、豊島園の紫陽花まつりに赴いたところ、木陰であるにもかかわらず、渇いた日が続いたからか、紫陽花はちょいとばかり夏バテのグッタリ気味に。一方で、こちらの花菖蒲は、相模湾という海に面し、海風を受ける場所にあるからか、生き生きと、青々としているように感じました。
……って、別に豊島園の紫陽花が悪い、というわけではないんですけれどもね。
天守閣に登れば、相模湾の大パノラマ。かすかではあるものの、伊豆諸島も見えて、清々しい一日を送ることが出来ました。
植物観賞、代表的なところでいうところの『桜』や『紅葉』は、個人的には青空の下で観賞するのが好きです。ですが、梅雨の季節はそんな高望みをそうそう望めるわけでもなく。
ただ最近は、雨の季節だからこそ、その『雨』のしっとり感、密やかな感じを醸しながら咲く植物を観賞する、というのもいいとも思い、花弁に滴る滴をつぶさに眺めながら観賞する、というのも、またこの季節を味わうオツなやり方かもしれません。
でも、ずぶ濡れの紫陽花を観た時は、やっぱりというか、何となく、どよーん、としてしまいましたがね。。。
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列を組んで登校する小学生。自転車に乗ったり、友達同士でおしゃべりをしながら登校する中学生。
そんな子供達の登校と同時に、駅へ向かうスーツ姿のビジネスマン。
ジャージ姿やウィンドブレーカー姿で、ジョギングに励む人。犬の散歩をする人。
閑静な住宅街も、朝はそれなりの賑わいをみせます。
そんな爽やかな空気を一気に引き裂くように鳴り響く、
防犯ブザー。
何かあったのかと振り向くも、こんな人通りが多い時間に何かが発生する可能性は極めて低く、予想通り、防犯ブザーを手にした小学生のイタズラでした。
何も起きていないのに鳴り響く防犯ブザー。それを実行する子供も子供で問題がありますが、それと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に問題かもしれないのが、先ほどの僕と同じように、『予想通り』と思うこと。防犯ブザーが鳴り響いた時、他にも大人たちがいたのですが、誰一人として振り向かないの! 多分、皆さんも『予想通り』と思っているに違いありません。
そんなことが続けばどうなるか。
もし、本当に『万が一』のことが発生した場合、防犯ブザーを鳴らしても、それを聞いた大人たちは「予想通り、子供のイタズラだろう」とやり過ごしてしまう。
もはや、『防犯』の意味を成さなくなってしまうと思うのです。
こんなところを見ている子供なんていないと思いますが、それでも一言。
どうか、大人たちに『予想通り』と思わせないでください。防犯ブザーは、イタズラに使うものじゃない。貴方達の、身の安全を守るための道具なのですから。
『ダ・ヴィンチ・コード』の続編となる本作(原作は『天使と悪魔』の方が先で、主人公は同じだが作品としては別個)。
宗教の弾圧によって抹殺された秘密結社『イルミナティ』が、宗教に対し復讐を図るために復活。コンクラーベの最中に次代の教皇に選ばれるはずの枢機卿を次々と攫い、猟奇的なまでの殺人を繰り広げる。この殺人劇を企てた者の影には、教会の科学に対する軟化を忌み嫌い、独善的なまでに宗教を守り、宗教の優位性を謳っているが、その者自身の存在そのものが、科学の恩恵の賜物であるとは……
というのが原作の流れで、科学と宗教がこれまでにどれだけ対立していたか、というより、科学も宗教もどちらも人間の営みを探求するために生み出された存在で、これまでの人間の進化を促すために、両方必要である、ということが描かれています。
それに対し、原作の映画化となった本作は、『科学』と『宗教』の対立ないし両立という要素はほとんど感じられず、サスペンス・スリラーに絞ったと作品に仕上がったと思います。前作『ダ・ヴィンチ・コード』は、冒頭で殺人事件が発生したにもかかわらず、いつの間にか『聖杯』の存在の有無の謎解きに走ってしまった感があるので、サスペンス色はあまり感じられず、急ぎすぎた作品である、ただその一言に尽きてしまったのです。
ですが、『天使と悪魔』は時限爆弾式のサスペンス・スリラー。予告された時間に枢機卿が殺され、更に時間内に解決しなければ、ヴァチカンに仕掛けられた反物質によって大爆発が引き起こされる。そうやって謎を解きながら解決していることすら、黒幕の手の内であることも知らずに……
『天使と悪魔』も、やはり展開の速すぎる作品なのですが、その展開の速さが、むしろサスペンスの色を一層濃く見せています。「ゆっくりと細かく理解しよう理解しよう」としている間に、次の殺人が起こる、反物質による爆弾の期限が迫っている、というところが、鑑賞している側をより一層焦燥させます。本作は、原作を読んでいても面白い作品だと思いました。勿論、原作を読んでいない方が一層面白いのではないかと思います。
個人的に残念だったのは、原作で描かれた、黒幕となる存在のバックグラウンドの説明と、猟奇殺人の計画に及んだ動機が弱すぎる、ということ。そして、それに対するヒロイン、ヴィットリア・ヴェトラが切る啖呵。
他にも、原作には登場していた何人かの人物が、宗教家なのに科学によって救われた、宗教家であるが故に科学を受け入れられず、逆に不幸な人生を歩む結果となった、など、多かれ少なかれ『科学』と『宗教』の間で翻弄された人物が様々登場します。
『科学』と『宗教』は、決して相容れられない存在なのか、それともお互いを補い合える存在なのか。胸を打つ瞬間もあったけれど、映画ではそれが無かったのが残念です。サスペンス・スリラーに絞ったが故の結果かもしれませんけれど。。。
しかし、原作を読んでいる際もそうでしたが、映画作品を観て、ますますヴァチカンに行ってみたくなりました。勿論、謎解きの理屈抜きで、純粋に芸術作品や教会の鑑賞・観光ですが。