?? ギ ョ ニ ソ ??
新しい薬品か何かかな?
と思い、クリックした先の記事を見たところ↓
ははぁ。『魚肉ソーセージ』を略して『ギョニソ』……
って略しすぎじゃボケッ!
その昔、新聞のテレビ欄で、ドラゴンボールの再放送を『ドラゴン[再]』って書かれるくらい訳の分からない略し方をされた一例でした。
このくらいのネタしかないので。
はふっ、疲れた……
高校の陸上部の顧問としてお世話になった松野先生が、定年退職されるということで、お祝い・お疲れ様会に行ってまいりました。
出席者のほとんどが正装というのはどういうことだ。
マクレガースポーツのウェアに、リーバイスのジーパンで来れば、黒々集団の中でキワキワに目立つのはもはや必然。
さらに、勤続43年間ということもあって、先生の教え子の現在の年齢層といったら、上は団塊の世代から下は現役大学生まで。そんな中に投入された一人のチンピラ紛いの男。目立つという以上に、周囲の視線が恐ろしく痛かったのです。
ま、その当人である僕はそれほど気にしなかったけどな。
先生、僕は先生のおかげでこんなに図太…… ゴホンゴホン、基い、成長したよ!
しかし気にしたのはもっと別のこと。
1998年卒が僕しかいなかったこと。加えて一つ上、一つ下の代が誰一人としてこなかったこと(更に言えば二つ上も誰一人として来なかったこと)。要は、当時の思い出で話の花を咲かせる相手が、ほとんどいなかったということです。
辛うじて、二つ下の後輩クンが二人来ておりましたが、彼等のその下の後輩が割と多く出席していることもあり、むしろ二つ下の後輩クンは、そっちの方が話は合っておりました。
まぁ仕方の無いことだけどね。お兄さんは寂しかったヨ……
会は順調に進み、松野先生の後任の方のご挨拶。何とその方は僕の四つ下!
若いねー、頼もしそうだねー、と、まるで他人事のように思っていたら、
まさか陸上部の後輩クン(当時中学生!)だとは思わなかった…… orz
「お久しぶりです!」と声かけられても、2~3秒は全く分からず。過去の記憶を反芻してようやく思い出しました。そんな彼も今や立派な先生。そして当然のように彼にも後輩が沢山でき、多くの後輩クンが彼を慕っている……ことは慕っているんですけど、いつの間にか暴君振りを存分に発揮しており、どちらかというと畏怖されているような……
あの中学生だったガキンチョがここまで成長するとは……
お兄さんは誇りに思うよ……
つーか、オレのいる前で随分と威張り散らしてくれてるじゃないか。ぁあ?
なーんて、別に言える立場じゃないんだけど。
東京都の大会に出場経験はあるものの、それ以上の記録とか、陸上部の歴史に名を残すというような偉業を成したわけではありません。そういう意味では、僕たちの代は何一つ先生に「これぞ」と言えるようなものは残せませんでした。
なので、本来だったらこのような会も、来るべきなのかどうか非常に迷っていたこともあります。特に、僕の代は色々な事情の下、波乱の多かったこともありますし。
それでも、やはり高校時代の恩師の一人であることには変わりなく、辛くて苦しかったけれど、同じように楽しかった日々も存在していたこともまた事実。嫌だと思ったことはすぐ投げ出してしまう性格の僕が三年間続いたのは、その『楽しさ』があってこそなんだと思います。
43年間という、人生の3分の2を『陸上』という情熱に心血を注いだ先生。
本当に、お 疲 れ 様 で し た 。
ちなみに、僕はどういうイメージにたとえられているのかというと、
『砂糖醤油』
一体僕のどこをどーしたら砂糖醤油になるのか、小一時間ほど問いただしたかったのですが、そんな時間も残り少なくなり、飲み会は終了。
自分の中で反芻するも、明確な答えが出ず、今に至るわけでございます。
夜も眠れなくなる貴重なネタをありがとう。
ここで皆様にお願いです。
『砂糖醤油』と聞いたらどのようなイメージが湧くのか、皆様の忌憚なきご意見をお聞かせ下さい。また、僕の外見をご存知の方へ。僕のどこがどーなったら『砂糖醤油』になるのか、正直なご意見を頂戴致したく。
太字にしているのは、別に脅迫でも何でもありません。気のせいです気のせい。
こーゆーのを見つけました↓
『漢力検定』
『漢』と書いて『おとこ』と読むそうです。つまり読み方は『おとこぢからけんてい』。
ちなみに『漢力』とは……
「男」ではなく「漢」。
それは単なる性の区別を超えた概念。
見る者に爽快感や感動すら与える、熱く強い生き様を体現する者。
そんな漢には不可欠の“漢力”を形作るのは、
「心技体」の三要素。
その絶対量とバランスが、個性となる。
だ、そうです。
ここまでくだらないことを真剣に書かれたら、試さずにいられないのが世の常。
総合力は230ポイント。『先行タイプ』と出ました。
……で、結局これが何の役に立つのか、イマイチよく分からないまま、なのでした。
ちなみに女性も楽しめるみたいです。
赤ちゃんポスト
親が養育できない新生児を受け入れるシステム。熊本県の医療法人・聖粒会が運営する慈恵病院が導入を発表したもの。人目につきにくい病院の外壁に縦45センチメートル、横64センチメートルの穴を空けて、開閉できる扉を設け、36℃に温度管理された特製の保育器を置いておく。育てられない親が新生児を入れるとその重さでセンサーが感知し院内にブザーで知らせる。そのブザーとともに助産師らが駆けつけるという仕組み。監視カメラはつけず、「もう一度、赤ちゃんを引き取りたいときには、信頼して、いつでも連絡してください」といった手紙を置いておくという。ドイツ・ハンブルクに先例があり、キリスト教系の社団法人が2000年から設置し、70か所以上に広がっている。同病院では「赤ちゃんポスト」の設置理由について、「望まれない子供」がいることと、若年層の中絶防止を挙げている。
Yahoo! 辞書より抜粋
赤ちゃんポストの設置に伴い、各地で賛否両論の論議が繰り広げられています。
幼児虐待や育児放棄が横行している昨今、幼くして命を落とすくらいなら誰かに助けてもらった方がいいから賛成、とか。
逆に「そこに預ければ誰かが面倒を見てくれる」という考えが芽生え、かえって育児放棄が助長されるから反対、とか。
本当は、赤ちゃんポストは必要ないと思っています。
赤ちゃん一人一人が、本当の親元で育って、両親も、自分の血肉を分けた我が子を育てることができるのであれば。
できないから、『赤ちゃんポスト』という救済措置が必要になってきてしまいます。
それに、赤ちゃんポストは、不運の境遇に陥ってしまった赤ちゃんだけでなく、不運の境遇になりかねない親御さんへの救済措置でもあるはずです。
人間というのは、いや、人間だけではなく知性を持つ動物は、ストレスが溜まると、必ず弱いものにその鬱憤をぶつけます。人間の場合は、赤ちゃんですね。無抵抗で、力も無いから。容易に破壊の対象になる。それで、赤ちゃんの人生でなく自分の人生も全て台無しにしてしまう。
でも、その救済措置ですらも、『今ある選択肢の中での最善策』であって、『本当の意味での最善策』にはなりません。
赤ちゃんポストは必要ない、と思う理由は、もう一つあります。
その子が小学生とか中学生とか、一番多感な時に、ふとしたきっかけで『赤ちゃんポスト』に入れられた子供だ、ということが分かってしまった時。
「捨てられた子」「親に見離された子」として、いじめの対象にされてしまわないかどうか。
『その時』子供を救うことが出来ても、『これから先』もその子を救い続ける存在になれるかどうか。
多かれ少なかれ、人間は誰かを差別し、自分の優位性に浸る動物ですから、『赤ちゃんポスト』に入れられた、という事実が、その子に対する一生の『傷』になってしまう可能性もあります。
勿論、『その時』がなければ『これから先』など無いのですが……。
いずれにせよ、「もう『赤ちゃんポスト』は必要ありませんよ」と言えるような、そんな社会にしていきたいですね。
数多とある山積みの問題が、目の前に聳え立っていますが、それでも、一人でも多くの『親』と『子供』が、幸せな一生を送れるような、そんな社会にしていきたいです。
「諸君、最善を尽くせ」
『硫黄島からの手紙』で、西竹一中佐が最期に述べた言葉。
『最善』とは、一体何なのだろう。こういったニュースを目の当たりにするたびに、そう思います。