といった類の記事やニュースリソースが、洋の東西を問わずに大々的にリリースされたのは、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』が空前の大ヒットをしたのがきっかけ。それまでにも『3D』として銘打っている作品はいくつかありますが、どちらかというと所謂子供向けのアニメ的要素が強い作品が多く、一般的な大人が『3D』の世界観・奥行きを存分に楽しめる作品、という意味では、そのパイオニアの存在として、『アバター』が取り上げられていると思います。
しかし、今日までに幾多の映画がリリースされ、繰り広げられる人間ドラマやアクション・エンターテインメントといた『コンテンツの流れ』がお決まりのパターンとなってしまい、頭打ちとなっていく。その一方で、映画の表現やドラマの進行にも斬新さが求められる。「どんな作品も、たとえ話題性があろうとも、売れなければただのアマチュア作品」として見下されてしまうのであれば、それが安易な選択とはいえ、『3D』の表現に足を踏み入れてしまう、というのも吝かではないかもしれません。
しかし、(僕は未だに素人の域ですが)目の肥えた観客からすれば、安直な3D化は鑑賞すれば分かってしまうもの、みたいで。逆に3D化にすることで、評価を下げてしまったり、敢えて2Dの作品を鑑賞したり、というところがあるようです。事実、僕自身も、『タイタンの戦い』(リメイク)や『アリス・イン・ワンダーランド』は、2D鑑賞で正解と思ってしまいました。また、まだまだ3Dへの抵抗感もあり、『3Dを前提』として制作された作品にも、少し抵抗感があります(観てないくせに批判出来る立場ではありませんが…)。
しかし、その逆は?
「この作品、是非3Dで観たい!」と渇望してしまう作品は、これまでにあったっけ? と思い返してみると、多分あるんでしょうけれどすぐに僕の頭の中で見出せなかったのですが、
思い返すまでもなくこの作品を鑑賞し終えて思いました。「是非3Dで観たい!」と。
リドリー・スコット監督の作品の鑑賞は僕の映画鑑賞史の中ではかなり浅い方なので、あまり大っぴらに自分の偏食歴を語ることは出来ません(というか恥をかいてしまいますので…)。
『超大歴史スペクタクル』のジャンルならではこそ、というところもあります。そのスケールの大きさが、逆にもっと奥行きを持たせた作品として鑑賞したい! と思ったのかもしれません。
ロビン・フッドも、伝説上の英雄(時代背景は事実ですが、彼自身の実在を決定づける資料・文献は無いそうな。その後の様々な作品の中では、モデルとなった実在の人物はいたらしい)であり、作品自体もフィクションです。が、登場する人物や風景、家屋、動植物に至るまで、架空の存在はほとんどと言っていいほど無く、細かな(微細とも言っていい)ディテールにも及びながら、それでも壮大なスケールを描き切った、というところに、奥行きのパワーが漲っていたのでは、と思います。『実在しない架空の生物や現象』は、どうしても想像力で補うしかなく、またその想像力が映画としての表現力とマッチしない、あるいは追いついていないと、どうしても歪な表現に仕上がってしまうのではないか、とも思います。
その点で言えば、たとえロビンフ・フッドが伝説上での存在とはいえ、彼と彼の周囲の人間性・人間関係、12世紀当時の環境・現象、歴史背景に至るまで、リアリティに富んでいるし、また非常に精緻に描かれていると思います。リドリー・スコット監督が12世紀の世界を目の当たりにしたわけではないと思いますが、12世紀の世界観を、あたかも目の前にあるように、『信じ込ませる』というより『疑う余地がない』くらいにまで作りこんでいる、という意気込みが感じられます。
一方で、これは『グラディエーター』にも同様のところがある、『腐敗した権力への対抗』の縮図。少々出来すぎなところもありますが。
正義のアウトローという、ちょっと言葉尻だけでは矛盾しているように思えますが、全体的に自分の突き進む道は貫き通し、そしてその道すがらで出会った人たちには義理堅いのが、ロビン・フッドの持ち味。ただ単に悪性に嘆くだけでなく、また失望するだけでもなく、自由と権利を得るためならば、どんなことも諦めない。その一方で、最初の方こそ利己的な振る舞いで生きていたものの、十字軍遠征からの凱旋後に垣間見たジョン王の傲慢な振る舞い、それでも王につき従わんとする臣下の真摯な忠誠心の狭間で、「一枚岩の国を作るには」という考えが芽生える。
形成された『ロビン・フッド』の人間性の象徴と生き様は、たとえ時代を超えても、言語や民族、習慣が違っても、どの世界にも惹きつけてやまない魅力があるに違いありません。
登場人物の人間関係も、やはり不勉強の僕では最初は戸惑い、懸命に理解に励みましたが、幸い物語もそれほど複雑にはなりすぎず、明快な展開として描かれているし、笑いを誘う場面もあります。大ドンデン返しといった展開はないものの、壮大なスペクタクルの描写は必見の価値あり、と思っています。
宇宙を舞台に、人類と地球を侵略しようとする地球外生命体との戦いを繰り広げる、その後のSFアクションアニメの先駆的存在となった作品の実写映画です。本格的なVFXの技術を動員し、ハリウッドのアクション映画に比肩する作品としての前評判をちらほら耳にしたものの、公開前のCMで、日本の都市の上空にヤマトが飛んでいるシーンのあまりの違和感から、それほどの期待を寄せずに観賞しました。
そしてものの見事に、その寄せなかった期待がドンピシャ。
色々なところで、SF云々以前のツッコミどころ満載なのです。
宇宙空間で繰り広げられる、地球外生命体『ガミラス』との、息もつかせぬほどの戦闘シーン。
あまりにも動きが素早すぎて、しかも砲弾もこれでもかというくらい打ち込みすぎて、双方の位置関係や情勢が分かりませんでした。後々になって何とか目で追えるようになったものの、慣れが必要かもしれません。
打って変わって、ヤマトの内部のシーン。
息もつかせぬVFXとは真逆の、昭和の特撮戦隊ものによく見られる、貧相な合体ロボのコクピットみたい。戦闘シーンやヤマトの外観も、それこそリアリティを出し切っているとは思えないけれど、それでも実写ということから、丁寧に作られているのは分かります。『ヤマトが主人公』なら尚更のこと、外観はもちろん、内部もリアリティを出し切るくらいの作りが欲しいと思いました。このあまりのギャップの差に落胆を禁じえません。
ガミラスとの戦闘シーン。
事前に自衛隊に武器の取り扱いについて訓練を受けたらしいのですが、敵に銃口が向いていません。日本が銃社会でないことが、良かれ悪しかれ、『銃を使って敵を攻撃する』というを演じるところに、リアリティを引き出し切れていないところが感じられます。乱射すればいいってものでもないし。
あ、でも、アナライザーのシーンには迫力があり、目を引きました。
キムタクはやっぱりキムタク、というご意見の方も多く見受けられます。まぁ、彼は彼の演技のポリシーによって、キムタクという人格を踏まえた『古代進』というキャラクターを演じたのかもしれません。
しかしそれ以前に。乗組員が揃いも揃って隙だらけ油断だらけってどうなのよ!
人類の命運も、もって1年足らず。確証も何もない僅かな情報を頼りにイスカンダルへ航行するも、予定通りに到着するか、目的のものを入手できるかも分からない。ましてや、襲撃するガミラスの特性もほとんど掴んでいない。そんな勝率1%にも満たない、一か八かの賭けのような航行なのに、
敵の襲撃を受ける → 撃退する → 皆で喜ぶ → 油断する → 予期せぬ敵の襲撃を受ける
普通の軍隊じゃあり得ませんよこれ! 戦いの場から一旦離れて和気あいあいと仲間と時間を過ごすことはあっても、粛々と任務をこなしている間に、敵の存在や攻撃の有無を見落とすようなことは絶対しないと思うのです。
アニメだったらよかったのかもしれない(いや個人的にはよくありませんが)。でも今作は実写です。アニメとは違う、実写ならではのリアリティと表現力がもう少しあってもいいのではないのでしょうか。たとえそれが、原作のメインストリームから少々逸脱したものであったとしても。
ギリギリのラインで人事を尽くして、それでも完璧に作戦を遂行できるとは言いがたい。常に緊張と絶望感のプレッシャーに飲み込まれそうになりながら、ナイフのエッジ上を血だらけになりながら歩くがの如く。そこまでしても、最後の最後には逆転劇すら許されない状況に追いやられる。
個人的には、地球の命運をギリギリの賭けの中で握る物語であればこそ、リアルに描くことができるのではないかと思います。が、そんな状況下であるにもかかわらず、ほぼ全員に無駄ともいえるような余裕が散見されることに、残念な気がしてなりません。
まぁラストのシーンと言ったら、リメイク版『日本沈没』とか『アルマゲドン』とかと同じ。やっぱり地球と人類を救う運命を背負った主人公は、似た結末なのね。。。 と思いました。
それもそのはず。
宿敵であるヴォルデモート卿が復活し、自分に傅く死喰い人達を呼び寄せ、来る宿命を自分のものにしようとする算段が整った。後は、それを実行するだけ。一方のハリー達は、これから襲いかかる敵の襲撃に備え、様々な準備や宿敵の計画を挫く行動に出ながらも、次々と大切な人を亡くし、ギリギリの中で生命を繋いでいく、という状態。
僅かな望みすらも消え入りそうな日々。一瞬のスキや判断ミスをしただけで、ズタズタに引き裂かれる。そんな、投げ出したくなるような生活に、怯えることすら許されない。
これを、若干17歳で?
彼にとって『選ばれし者』という称号は、もはや邪魔でしかならない。彼は、仲間と、愛する人たちと一緒に、ワイワイしながら楽しく過ごすのが夢だったはず。しかし今は、仲間内ですら、疑心暗鬼の空気に包まれている。まるで、それすらもヴォルデモート卿の手の内であるかのごとく。
ハリー・ポッターシリーズの中で、最も『観るのがきつかった』作品です。これまで、ハリー・ポッターシリーズを観賞して、彼の成長や彼が辿った宿命を知っている、見守ってきた方なら尚更のこと。『集中を強いられる』ような作風になっているのは勿論、圧倒的に手数も少なく、逆転劇の見込みも無いに等しい状況下。『主人公』の感情で観賞すると、まるで針の筵の上に座っているかのような気分。
ところどころで、エンターテインメント作品ならではの笑いを誘う場面もありますが、それを凌駕するくらいの、迫りくる恐怖、不安、焦燥感、疲れ。
守ってくれる人が悉く死んでいき、身を守るのも精一杯であるのにそれでも身一つで歯を食いしばらなければならない状況下は、通常だったら発狂するかもしれません。それでも、もう後戻りが出来ない旅路を、17歳の少年少女が強いられるのです。
対するヴォルデモート卿は、あれだけの数の死喰い人を侍らせているにも関わらず、誰一人として信用していません。『恐怖』によって部下を圧するように統括し、部下である死喰い人たちは、怯えと心酔で彼の下に身を寄せる。そういった組織は、精神的な張り詰めを緩める懐柔策があれば、あっという間になし崩しになるものですが、それはヴォルデモート卿も知っているのか、地獄を味わう以上の報復を彼らの目の前にちらつかせる。もはや、刃向かう気力が起きることもなくするように。
しかし、そんな圧倒的優位であるにも関わらず、ヴォルデモート卿が狙っているのは、自身の不死身を更に強固なものにするためのもの。『死の秘宝』。『死』を克服するための3つの品。
このことから、彼自身、自分に対して絶大な自信がある反面、慎重性も兼ね備える。彼が求めているのは、完璧な勝利と永遠の生命。それを得るためならば何を犠牲にしても厭わない。
自らの一生分を賭けるくらいの覚悟。身を切るくらいの凄惨な死と別れ。
既に小説版はその結末を発表しているものの、どうか彼らに、少しでも幸多き人生が歩めるよう、願って止みません。
魔法界の全てを賭けた戦いは、Part2に引き継がれます。
アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。
27年。南アフリカ共和国の第9代大統領、ネルソン・マンデラ氏が投獄されていた年数。
アパルトヘイトによる『安全なる隔離』の下に差別を受けてきた非白人種の一人として、彼は武力という『力』を以て対抗しようとし、逮捕・収監された。普通の人間ならば、27年間も収監されていれば、釈放後は復讐に燃え、これまでの差別に対する報復とも捉えかねない振舞いをしたかもしれない。
しかし彼はそうはしなかった。非白人種に対して侮蔑や差別を奨励することも無く、白人種に対しても、ただ非白人種と同様の扱いをするだけで格別卑下するようなことはしなかった。
それは恐らく、彼が何よりもまして、『南アフリカ』という国を愛していたからかもしれない。
そして、良かれ悪しかれ、どんな歴史が刻まれたとしても、『南アフリカ』は、『南アフリカ』という国を愛する全ての人たち(人種も、肌の色も、宗教も、理念も関係なく)で築きあげなければならない、と思ったからかもしれない。
1993年、前大統領であるフレデリック・デクラーク氏と共に、アパルトヘイトを平和的に廃止したとしてノーベル平和賞を受賞。しかし、彼の本当の目的は、アパルトヘイトを廃止することだけではない。『南アフリカ』を、世界に誇れる国にすること。そのために、『南アフリカ』に住まう全ての人々が、一丸となれること。
その先駆となったのが、1995年のラグビーワールドカップ・南アフリカ大会。
南アフリカの代表チーム『スプリングボクス』は、当時低迷期だったのに加え、アパルトヘイト時代の象徴として解体寸前まで追いやられていた。しかし、マンデラ氏はチームの名前とユニフォームの色を、自らの説得によって存続させる。多分彼にとっては、チーム名とユニフォームを一新させることは、『南アフリカのチームの革新』ではなく、『白人種に対する報復』であると目に映ったのかもしれない。そんなことで、長年を経て深みに深めてしまった、白人種と非白人種との溝が埋まるわけがない、と思ったから。
しかし、彼が学生時代にラグビーをやっていたこともあり、世界に誇ることが出来、且つ『南アフリカ』という一枚岩を作るためには、『スプリングボクス』がワールドカップで優勝することは、どうしても必要だった。
アパルトヘイトが廃止されたとはいえ、難題だらけの南アフリカ情勢。
実力が低迷し、更にはファンまで遠のきつつある『スプリングボクス』。
『世界に誇れ』、且つ『一丸となる』という、突き付けられた課題。当時にすればそれは、限りなく可能性が0%に近い物事を達成させることに近いことだったのかもしれない。
しかし、マンデラ氏と、『スプリングボクス』のメンバー(とりわけ主将であるフランソワ・ビナール氏)は、それを可能にした。類稀なる努力と、『変わっていこう』という自身の意志の力によって。
『スプリングボクス』が、PR活動ながらも非白人種の子供たちにラグビーを教えているシーンで、子供たちが横一列に並び、ボールをパスしているところ。そして、南アフリカ大会で着実に勝ち上がり、皆が食い入るようにテレビ観戦、ラジオ中継を聴き、優勝が決定した瞬間に皆が一斉に喜びを分かち合う。
『武力』によるクーデターや報復処置では決して得ることの出来ない高揚感、達成感。これこそが正に、マンデラ氏が望んでいた瞬間。世界に名だたる『南アフリカ』を、一緒に作り上げることが出来た瞬間。
本作のリリースにおいて、マンデラ氏より、下記のような言葉が添えられていたそうだ。
「スポーツには世界を変える力がある。人々にインスピレーションを与え、団結させる力があるのだ。ほかの何かには、まずできない方法で」
この作品、単に人種差別や隔離政策によって、非白人種がどれだけ不利益で差別的な扱いを受けてきたか、ということを伝えるためでもなければ、人種差別はいけないことです、ということを訴えるものでもない。
それはもはや前提条件で、更にそれを越えた、人種・宗教・肌の色・習慣・文化など一切関係なく、『一丸となって誇れるものを持つ、もしくは目指す』という願いを込めた作品だと思う。
2010年のサッカーワールドカップ南アフリカ大会も、開催前の日本代表は散々な顛末だった。しかしそれがワールドカップ開催と同時に、一気に花開く。そして、それまで諦めモードだったサポーターを呼び戻し、一丸となった応援が日本各地で鳴り響く。結果は、『スプリングボクス』のような優勝ではないにせよ、『日本』が一丸となって誇れるものを持てた喜びは、同様のものだったのかもしれない。
最後に。
彼が収監中にもかかわらず、自分の『本当の信念』に目覚め、そして持ち続けることが出来、フランソワ・ビナール氏にも送った詩は、19世紀の詩人、ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(William Ernest Henley)の作品である。
Invictus |
インビクタス(不屈) |
と、朝から響く母(牡羊座)の声。
一体何かと言うと。
本日、母は友人と一緒に、都内へ買い物に出かける予定でした。互いに都合付かずで日程が合わず、ようやく都合がついたにも関わらず、台風の接近により仕方なく中止。
仕切り直しとなってしまったこと、激しく打ち付ける大雨の影響でアンニュイな気分の母が観た、テレビの『やじうま占い』。
牡羊座
オシャレな友達とショッピングへ出かけて。いろいろアドバイスしてもらうと満足のいく買い物が可能。
「何よこの占い! ここまで段取り組んだのにどうしてこんな結果なのよ!」
そんなことを聞かされ、笑いと呆れと虚脱感に見舞われた僕はどうしたら。
その後、新聞の折り込みチラシに、近所のデパートで欲しい物が安売りで売っていたから、父(蟹座・アッシー役)と一緒に出かけました、とさ。